公式がフレンドリーになっていくのが辛い

通知を取っているtwitterアカウントがこの頃フレンドリーになっている。

ラジオ局のアカウントは番組情報以外にも豆知識や時候の挨拶を呟くようになり、webサイトのアカウントは口調が砕けた。

新曲の発売に合わせて、アーティストの公式アカウントが既定のハッシュタグが入ったツイートにランダムで「いいね」を押しにいくキャンペーンをしている、らしい。

ずいぶんな時代になったなあと思う。

まあ、コロナ禍で支えになるように、少しでも楽しみが増えるように、というのはある程度あるだろう。それにしても、時代は随分遠くまで来て、私は岸から見送るだけの人間になったなあ、と思うのだ。

 

「公式」という言葉が存在しなかったあの頃、無法地帯で生きていた。

ブログ記事のコメント欄を、掲示板代わりに1000まで埋めて会話をしていた。何を話していたかは全くもって忘れたけれど、特定のものを好きな人たちだけが集まっていた。

 

もしかしたら、「公式が怖い」というのは、最初にネットに上陸したジャンルがアニメ・ゲーム系だったからかもしれない。

2000年代は、色々なコンテンツで非公式に大規模な攻略サイトや交流サイトが存在していた。そこで扱われる情報の中には例えばゲームバランスを崩すようなものがあったし、そこから流れる個人サイト・ファンサイトには非公式の同盟などなどがあった。非公式地帯の中で、ある種の自治が成立していた。

「公式」は見ていただろうけど、その中に表立って参加することはなかった。あくまで私の観測範囲の中でだけど。「公式」は情報を淡々と出すだけで、それ以上の仕事はしなかった。

その後もずっとアニメ・ゲームの攻略や交流にい続けている自分にとっては、今も「公式」との距離が近づくのは禁忌のように思えてしまう。そのコンテンツが、例えアニメ・ゲーム系でなくっても。

 

元々インターネットでは割と逃げ回らなければいけない人間だったこともあって、すっかり人との交流が億劫になってしまった。

だから、「フレンドリーな公式」を見ると、二重の意味で逃げてしまう。自衛というか、習慣なのだ、もう。他人がかけようとした橋を自らめきめきと折っていく。

こうやって書くとものすごい悪癖だ。ただ、人との交流を極端に嫌うのには他にも理由があるので、ここに書いたことだけがすっきりすれば即治る癖ではないことも気づいている。

せめて橋が朽ちていかない人間になりたかったと心から思う。